江戸から築地・豊洲へ


魚河岸の始まりは江戸初期、徳川家康の時代に市中で魚介類を売ったのが起こりと言われています。元は家康が当時、最先端漁業技術を持った摂津の漁師を江戸へと移住させ、幕府に魚介を納めさせた事に始まります。そのリーダーだった「森 孫右衛門 一族」は1582年本能寺の変で織田信長が殺害された時、堺にいた家康が命からがら三河まで帰るのを、水路を使い助けた事で功績を上げました。一族が江戸に移住後は、白魚の漁業権に税金の免除、武家屋敷への自由な出入りといった特別待遇が与えられました。そして当時浅瀬だった東京湾奥の浅瀬が与えられ、これを埋め立てて故郷、摂津佃村の名にちなんで佃島と命名しました。漁師たちは家康に感謝の印として白魚の献上を始め、今もこの習慣は徳永家当主への献上として継続されています。

佃しま漁舟-(東都三十六景)

出典:錦絵でたのしむ江戸の名所

https://www.ndl.go.jp/landmarks/index.html

 

最初に日本橋周辺に魚河岸ができた理由は、佃島周辺に漁業関係者が多く住んでおり、江戸湾の豊富な水産資源を船で運んだ事が大きいと言えます。築地の歴史を紐解くと、家康の水運を利用した食料調達、水産資源に対する深い洞察が見えてきます。

築地市場工事1933年竣工式 場所:築地魚市場 写真:株式会社鴻池組Ⓒ築地銀鱗会

その後、日本橋の魚河岸は、大正12年の関東大震災で被災して築地に移転するまで、約300年に渡って、江戸の台所としての機能を果たしました。1935年には独自のアーチ型巨大市場として築地市場が開場します。当初は鉄道物流が主体で引き込み線を敷地に入れ、日本中の商品が集まって来た事で、日本一の市場へと発展を遂げていきます。そんな中、築地市場は大きな時代の波に何度もさらされました。戦後すぐにはGHQに建物を接収されクリーニング工場として使われていた事もありました。そんな「魚河岸」から「市場」へと変貌していきます。

築地市場は2018年10月に、83年の歴史に幕を下ろしました。同年10月に豊洲市場へ移転。

提供:東京都中央卸売市場